ホーム > オフマガ ニュース一覧 > 「祖父の残した堀江イズム、バイタリティー、冒険心、愛社精神、心配りを、ぺんてるのスピリットとして継承していく」 ぺんてる堀江圭馬社長
16日、台東区西浅草の東本願寺で執り行われた、ぺんてる創業者・元代表取締役会長の堀江幸夫氏の社葬で、施主として挨拶した、堀江圭馬ぺんてる社長の言葉は以下の通り。
祖父はかねてより足を悪くしておりまして、実際には10年ほど前から会社には出社できなくなっていました。しかしながら毎日、仕事のことばかり考える日々でした。新製品が出来上がると、祖父の自宅のところに持っていって書き味を試していただいたり、「クリップの弾力が硬い」というような指導を頂いたりしていました。
文字が書けなくなってからも共和会がどうなっている、ロス工場はちゃんと動いてるいのかと、最後まで仕事の心配ばかりしておりました。足以外は丈夫でしたので、この夏ごろまでは夕食に、まぐろのお刺身と小さい缶ビール一缶を楽しみにしておりました。秋口からは、飲み込む力が弱くなり、痰が絡むようになりまして入院を致しました。その後、腎臓の方が悪くなり手術を行いました。しかしながら結果として、回復することが出来ず11月30日、99歳でこの世を去ることとなりました。介護の方にもユーモアと感謝の言葉を常に忘れず、心配りをされた毎日でした。
祖父は筆職人から製造業になりまして、昭和21年34歳で大日本文具株式会社を設立し画材の製造を始めました。「当時は毎週末、日本全国どこかで写生会を開催して絵具、クレヨンの普及に取組んだ」と聞いております。現在でも生まれて初めて貰った賞状がぺんてるの写生会での賞状という話をいろんな方から聞きます。1970年には、大阪万博で世界児童画展を開催しまして、現在では世界児童画展は世界40ヶ国から毎年20万件の応募があり世界最大規模の児童画のコンクールになっております。日本の子どもの絵を絵画文化の育成という意味では大きな貢献があったのではないかと思います。
また人の物まねをするのが嫌いで、世の中に無い物しか作らないと言うのがポリシーでした。ノック式のシャープペンシル、0.5ミリのシャープの替え芯、サインペン、筆ペンなど、世の中に数々の世の中に無い物を世に送り出して、日本の筆記具市場のパイ自体を拡大してきました。また、50歳を過ぎてから海外進出に取り組み、アメリカの見本市会場では英語がしゃべれないのに、ただただサインペンを配りまくりました。現在、日本の筆記具が世界市場で確固たる地位を築いている背景には、祖父の功績というのも大きかったのではないかと思います。
祖父は小学校しか出てない身でありながら、一代でぺんてるを国際的企業にまで育て上げました。その一生は文具会の松下幸之助とも言うべき凄まじい生涯だったというふうに思います。祖父は99歳という天寿を全うできましたのも、ここにいらっしゃる皆様、もしくは皆様の先代、先々代方々に大変お世話になりご指導いただいたからだこそだと思います。祖父が築き上げ残していったバイタリティー、冒険心、愛社精神、心配りといった堀江イズムを、ぺんてるのスピリットとして今後、継承していくことが残された私どもの使命であると考えております。
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| 「堀江イズムを、ぺんてるのスピリットとして、継承していくことが使命」と語る堀江圭馬社長 |